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POST        by TAKAHIKO(前田隆彦)

精密機械の始まり
精密機械の最初の音源として、1979年4月15日の練習用テープ(5曲、約40分)が現存している。
私が精密機械結成以前に参加していたバベル:芭辺留(竹谷亮:ヴォーカル&ベース、深尾彰:ドラムス、前田隆彦:ギター&ヴォーカル)の音源として1978年の1月のものまで残っていることから、おそらく精密機械の結成は1978年後半~1979年初旬ではないかと思う。
バベルのリーダーは年長でベースの竹谷君。ドラムスの深尾君も含めて技術的には素晴らしい先輩であったが、バンドの曲作りがメジャー志向で、ラブソングが多かった。私が自作した変拍子や10分程度の暗鬱な曲との相性があまりにも悪く、結局脱退することになった。


精密機械の出会いはいずれかのメンバーによる音楽雑誌のメンバー募集への投稿がきっかけだったと思う。それが当時としてはごく一般的な方法だった。中嶋正彦と豊久兄弟は当時「生と死」というバンドのドラムスとベースであった。初めての顔合わせは中嶋兄弟の地元にある廃校での音出しであった。3人の共通点はハードロック好きであることぐらいだったが、不思議と波長が合い、そこから毎週末、音合わせや曲作りが始まった。
なお、バンド名は皮肉と警鐘である。人は精密でも機械でもない。

アルバムについて
初期はライブバンドとして、アドリブの多い一期一会の演奏が中心だったが、1982年頃に作り始めた楽曲では、キーボードや複数のギター音が鳴らせない歯痒さを感じ始めていた。かといって、自分たちに合う新しいキーボード奏者や、意気投合するギタリストを探してメンバーに加えることは、毛頭考えられなかった。

また、スタジオ録音自体にも興味を持ち始めていた。
ちょうどその頃にsound Rという元町のスタジオが100万円でLP制作とのキャンペーンをしてることを知った。また、神戸大学六甲台講堂で毎年開催されるRock in Rokko の主催団体、Free Allの川崎さんがディレクターをしてくれるとの申し出もあり、アルバムを録音することとなった。キーボードについてはライブで知り合った変身キリンの須山公美子さんに頼んだ。
スタジオ使用時間は制限があったと思うが、結果的には全くそれを無視して録音・編集をしてもらった。もちろん録音はデジタルではない。多分16トラック(または8トラック)のテープだった。ミキサーはスタジオの谷川さんが担当した。
ジャケットデザインについては、スタジオの並びにあった輸入文具店ONE WAYのマスターにお願いした。名前は失念したが、確か川崎さんの知人だったと思う。この店は2015年頃には現存していて、その時にマスターと話をした記憶があるが、その数年後訪れた時は、店はなくなっていた。また、神戸元町や芦屋辺りでジャケット・ポスター用の写真を撮ったが、カメラマンが誰だったか全く記憶がない。

 

アルバム曲について

 

WaltzⅠ

アルバムの最初と最後に収められたWaltzⅠとWaltzⅡが、このアルバムがコンセプトアルバムであることを示している。この2つの曲はメロディー、リズム共に同じだがアレンジは全く異なる。そしてこのⅠは重低音の打撃音から始まる。ドスン、ドスンというこの音が、町が都市に変わる、そして新しい都市に変容する音に感じられる。なおこの音を録るために様々なものを試した。イメージに最も近い音になったのは、バスタムをローチューニングしたものだった。そしてこの音にアカペラの歌が絡んでくることで、初めてタイトルであるワルツのリズムであることに気づくだろう。さらにベースやギター、ハイハットの音が重ねられてくる。いわゆる壁塗りだ。最後は潮が引くように音が減っていき、打撃音と金属的なハイハットの音だけが残る。

~機械的な音が心を蝕み、自他の存在すらも危うくなる。そして、答えのない問いを繰り返し続ける機械に自分自身が重なる~

 

新時代

“時代という曲を作った。1980年頃である。レゲエっぽい裏打ちのリズムギターから始まる曲である。その時に感じていた時代の危うさを曲にした。新時代はその曲の続編である。今こうやって改めて聞いてみると、再生を望んでいたように感じる。“殺人機械”という曲を演ってた時期もある。破壊し全てを一からやり直すことを歌った。この曲でも人が絶滅することで本物になるとしている。

また、言葉遊びを楽しんでいる。3回登場する「すべて」「もの」「かわる」の漢字がすべて異なる。ライブでは表現できない手法だ。

 

劇場

ベースのTOYOHISAの作品である。彼のベースは金属的で重たい。そして何よりメロディアスである。この曲でもベースにマッチアップして自然と浮かんだ旋律で歌が作られた。トリオ編成なので、常にベースが曲の根幹を担っている。歌詞については今まで意味を理解しようとしたことがなかった。言葉の意味、響き、感覚で歌った。今あらためてじっくり読み返すとこれは自分たち自身のこと歌っているのかもしれない。当時ライブでは人形を抱いて登場し、マイクスタンドにその人形を飾ってライブを行っていた。破壊的な歌詞、演奏、指で弦をかき鳴らし、指から血を流しながら演奏したこともあった。そして最後はギターをステージに放り捨ててステージを後にした。そんな自分たちのことを歌詞にしたのかなと今頃になって感じている。

 

君は知っている

ピンクフロイドが好きだ。当時はネットが無いので、多分深夜放送か雑誌の情報だと思うがピンクフロイドが気に入って購入し、録音に使った日本の風鈴のことを知っていた。それは火箸でできており、明珍というブランドだ。この明珍火鉢の風鈴を元町商店街の金物屋で見つけ、この曲の最初と最後に使用した。きれいな響きを録るのに苦労した。スタジオ内で録りエコーをかけるより、自然な響きにこだわった。当時のsound Rは地下にあり、その地下へのコンクリート階段で録音を試したことを覚えている。それを採用したかどうかは定かでない。

この曲は風鈴の音とアカペラで始まる。今思えばWaltzⅠと同じテイストだ。

MASAHIKOのドラムは何時もタイトだ。この曲を歌っていていつも気持ちいい箇所があった。3番の“金の方が大事だって”の「だって」がバスドラにピッタリなのだ。このことについて話したことはないが、きっと意識して合わせてくれていたのだと思う。

​​

歯車
“君は知っている“にしてもこの曲にしても、静かに始まり、荒々しく盛り上がり、静かに終わる。

宇宙にソラと仮名を付けたことをディレクターの川崎さんに感心されたのは意外だった。人は努力したことを頬められず、何気ないことが褒められる。そういうものだ。
最終盤のギター録りに苦労した。ライブでは感情をギターにぶつけることは当たり前にできていたつもりだった。 特に最初期の
“自由への束縛”、という曲の最後は、ギターだけではなく、リズム隊も砕け散り、3人ともが感情だけで演奏した。また、曲によっては、体当たりが曲のタイミングになっていた。しかし、スタジオ録音では気持ちのコントロールが難しい。解放できない部分が残る。何度も録り直しをした。今ならデジタルで良いとこ取りができるのかもしれないが、それはない。最後の数音は今でも後悔が残っている。
感情と理性のバランスが難しい。うまく折り合いが付けられない。結局およそ50年たっても同じだ。いつまでも“光になって宇宙を飛べない”自分がいる。

Lunar Song(少女)
この曲は元々、満月の夜に入水自殺する少女をイメージした8分程度の歌詞のある長い曲だった。アルバムに収録した曲は、当時作っていた曲のうち、この曲はスタジオ録音向きだと感じた曲を選曲した。だが、この曲はライブで演奏していた曲の間奏部分だけを1曲にまとめたものだ。だから歌詞がない。だからこそ、ギターを数本重ね、ライブでは実現しえないアレンジにした。ドラムもエコーを利かせて、ドシン、ドシンとしたイメージ通りの音になった。この曲でもわかるように、精密機械の曲は常にベースが主旋律のような曲作りになっている。
録音時にミキサーの谷川さんにギターの音をどんな音にしたいか聞かれて、ディブギルモアのエコーが効いた艶のある音と、ロリーギャラガーのブルージーで擦れた音と、ジミヘンのファジーで力の籠った音が好きだと伝えたら、バラバラだと言われたことを覚えている。でも結果的に自分のイメージ通りの音に録音できたと思う。

聖夜
どの曲もクリック音だけはヘッドホーンで聞きながら録音した。だが、この曲はリズム・テンポともそれに合わないことは分かっていた。だからクリック音無しでの録音となった。曲のつなぎ目は間である。テンポも感覚である。だからある意味日本的だ。今の若い人にとっては気持ち悪く聞こえるかもしれない。
子供が未来を作ることは間違いない。自分はとっくに閉じ込められる側になった。この曲だけはこのアルバムの中で、少しだが未来と光が感じられる曲になっていると思う。ラストの須山さんのキーボードには、オルゴールのイメージを依頼した。
最後の掛け合いの歌声はどちらも私の重ね録りだ。

WaltzⅡ
リフレインとしてこの曲が収められている。伴奏は初めて登場する無名の12,000円のアコースティックギターのみ。弾き語りでの録音を希望したが演奏力がおぼつかず断念。別録りとなりタイミングが難しかった。
歌詞にあるように自分たちだけの為にこのアルバムを作った。だから人には何も期待しない。だからすべてが「無」。
WaltzⅠの「心」に対してWaltzⅡは「こころ」としたのは、少しだけ優しさや希望を感じたかったからかも。

最後に
曲間の無音時間のコンマ秒数にもこだわった。「劇場」や「聖夜」の最後の音をどこで止めるか、音を聞きながらディレクターの川崎さんと「せーの」で「ここ」と指示するとピッタリ同じだった。

フェーダーを自分で操作してフェードアウトを決めた。


もしこのアルバムを聞いて頂けるなら、出来るだけ大きな音で聞いて欲しい。

そうすればきっとあなたの心にも1983年の空気と思いが届くハズ。


最後まで読んでくれてありがとう。


           TAKAHIKO (前田隆彦)

追記                              (2026/6/14)

​2026年7月8日にディスクユニオンからアナログLPレコードが再発されることになりました。これを機会にこのアルバムを手に取る方に当時の情報を少しでも知って頂けたらと、このPOSTを掲載いたしました。

すると思いもかけないことが起こりました。このアルバムのディレクターである川崎義弘さんからメールが届いたのです。

LP制作後、2019年の年末に、約35年ぶりに一度お会いしたことがあっただけで、現在まで特に連絡を取り合うことはありませんでした。ところが、このPOSTを読んで頂いたようで、メールを送って頂けたのです。

その中で、私の記憶の不明瞭ないくつかの点についてご指摘を頂いたので追記しておきたいと思います。

① ジャケット等の写真を撮ったのは川崎さんご自身とのことです。

② ジャケット等のデザインをして頂いたONEWAYのご主人は江並さん(通称オスカー)ご主人には、2015年頃お会いした時に、精密機械の再始動を迷っていたところ、背中を押して頂きました。

③ 明珍火箸は、川崎さんからの情報だった様です。ヤマハのミキサーで、ピンク・フロイド、ステイービーワンダーに明珍火箸をプレゼントした人から直接お話を聞かれたとのことです。

ROCKは幻だったのか               (2026/6/26)

​PINK FLOYDの「狂気」(1973)から始まった。高校1年生だった。

中一までは、ほぼ音楽に興味がなかった。中二の友人H君の影響でフォークソングを聞くようになった。H君がフォーククルセイダースの”はしだのりひこ”が良いと言うのに対抗して”加藤和彦”が良いと言った自分自身の言葉の暗示にかかった。そして、クラスメイトのOさんがギターを弾くのを見て、自分もやってみたくなり、近所のおばちゃんからもらったアコースティックギターを弾き始めた。

 

中三になると加藤和彦がミカバンドを結成し、サイクリングブギが発売された。フォークでなくなった加藤和彦に愕然とした。けど、これからはこれだと思い、エレキをニッコーの通販で手に入れた。

ある日、深夜放送で加藤和彦が「ピンクフロイドの今度のアルバムはすごく良いのよねぇ、ジャケットがプリズムで、かっこいいし」とか言っているのを聞いて、初めて洋楽に興味を持った。しばらくして学校近くのレコード店で「狂気」を手に入れた。これにぶっ飛んだ。音楽、歌詞すべてが心を震わせた。これが始まり。

ピンクフロイドを知ってからは、色々なブリティッシュロックを聞いた。ハマったのはプログレ繫がりでELP、イエス、キングクリムゾン、そして、ジミヘンドリックス、ロリーギャラガー、ブラックサバス。その他ではウイッシュボーンアッシュ、キャメル、ハットフィールド&ザノースなど、まだPUNKはなかった時代のこと。

このころは、これらが本物のROCKだと信じていた。

しかし、ピンクフロイドはファイナルカット以降、ロジャーが抜けて骨抜きになったように感じ、ELPもイエスも解散、ジミはとっくに亡くなっていたし、ロリーも輝きを失っていた。サバスはメンバーのごたごたでメッキが剥げたように感じた。

国内では、ミカバンドはアッという間に解散し、はっぴいえんどのメンバーは歌謡曲を手掛け始めた。

エレキを使ったバンドはROCKと言われ、ニューミュージックと呼ばれる音楽やらテクノやらフュージョンやらクロスオーバーとかゴチャゴチャになって、パンクが出現し、私のROCKは路頭に迷った。

ROCKは若者が、大人や社会、常識に対する怒りや不満を言葉にし、音にして感情のままぶつけるモノだと感じていたが、どうやら音楽の一つの分野らしい。そして単なる興業。若者の感情のはけ口ではなく、大人の経済活動の一部に騙されていたように感じ、信じていたROCKは幻想だったのだと分かった。

商業ロックには関わりたくなかった。

​アマチュアバンドはマスターベーション、自己満足だと馬鹿にされても、観客に媚びて自分を見失う事よりよっぽど崇高だ。消耗品になるのはゴメンだ。

そう感じた。

ギターを始めたころ①                 (2026/7/2)

​1972年頃、「サイエンスエコー」と「ミュージックエコー」と言う、中学校を通じて定期購入できる雑誌があった。

元々、「科学」とか、「学習」という学研の雑誌の斡旋購入が、新しく変わったのかなと思う。

それまで「科学」を購入してもらっていたか、中三の時、物珍しさからか、ミュージックエコーを定期購読してもらった。

その雑誌の最後に、コードが記載された楽譜や、ギターのコードの押さえ方が記載されていた。それが教材のすべてだった。

近所の世話好きのおばちゃんから貰ったギターは、今思えばレキントギターだったのか、ナイロン弦の小ぶりなアコースティックギターだった。一年間ほどは割と熱心に練習したのではないかと思う。

高校になってミカバンドの影響でエレキを買った。雑誌の裏表紙によく広告が載っていたニッコー(二光?)通販でSGモデルを買った。12.000円ぐらいだった。​

広告ではギターヘッドにTomsonと表示されていたが、届いたSGモデルのヘッドにはGIBBONと記載されていたと思う。

 

もちろんギターアンプは無いので、ケーブルを細工して家のステレオアンプのAUXにつないで音を出していた。もちろん歪みはない。そして、エレキギターになっても、ハイポジションのコードの押さえ方を知ることもなく、チョーキングを知るまでには一年近くかかることになる。

ギターを始めたころ②                 (2026/7/2)

​高校一年生の秋ごろだと思う、エレキギターを持っているという理由だけで、バンドに誘われた。高一の文化祭でステージに出ていたレッドツェッペリンをコピーしていたバンドが空中分解し、そのベースとドラムから誘われた。

同じころ、合唱部(顧問が担任だった)の発表会で、ステージで伴奏をした。サイモンとガーファンクルの明日に架ける橋やサウンドオブサイレンスを演った。それが初舞台。

加入したバンドはベースの名村君がリーダーで、色々と教えてくれた。この時に初めてハイポジションのコードの押さえ方や、チョーキングについて教えてもらった。

バンドの目標は、高二の文化祭。バンド名は「クイックフライ(速い蠅)」

曲は当時、名村はCSN&Yに凝っていたのか、OhioやSouthern Man、ウイッシュボーンアッシュの剣を棄てろ、BBAのスイートサレンダー、ピンクフロイドの Breatheと、全くバラバラ。それでも毎日真っ暗になるまで音楽室で練習したり、メンバーの家でLPを聞いたり、本当に楽しかった。とにかく夢中だったのだ。

当時流行っていた深夜放送に、毎日放送のヤングタウンという番組があった。土曜日は桂三枝が進行役で、公開録音でアマチュアバンドが出演していた。それに応募して出演することになった。(多分応募したのは名村)髪を伸ばしていた私を見て、桂三枝に「お寺の塔みたいやな」と言われた。演奏したのは「オハイオ」。ところが、その後、ゲストのジャニーズジュニアだか誰だかが遅れたとか出演できなくなって、急遽もう1曲をリクエストされ、「サザンマン」も演奏することになった。ところがこの曲は5分以上の長い曲、最後はフェードアウトされエンディングとなった。

この録音は平日の夕方に毎日放送(大阪千里)であったので、神戸市垂水区の高校に通っていた僕たちは、当然のごとく授業をエスケープした。これが生まれて初めて、最初で最後のエスケープだった。

ニッコーのSGモデルは、ネックがグニャグニャで、チューニングが困難だった。耳が悪く、自分では分からないが周りから「音が合ってない」「おかしい」としょっちゅう言われた。夏休みに神戸新聞社(デイリースポーツ)でアルバイトをして、新しいエレキギターを買った。初めて自分で稼いだアルバイト代を握りしめ、メンバーと一緒に初めて高校生だけで大阪(多分心斎橋)の楽器屋までドキドキしながら買いに行った。手に入れたのは、フェルナンデスの白のストラトモデル。ピンクフロイドのLP「ウマグマ」のジャケットに写っていたモデルだ。

​高二の文化祭にはこのストラトで演奏した。

ギターを始めたころ③                 (2026/7/9)

​大学生になった4月、高校時代一回も床屋に行かず伸ばしたストレートの長髪姿に、新入生と思われず、部活動には一切誘われなかった。(ちなみに、当時神戸市立の男子中学生は校則で、全員坊主頭だった)

​最初は同じ理工学部数学コースのフォークやブルース好きの山崎と友達になったが、音楽の好みは合わなかった。でも、DEEPな大阪のブルース喫茶を沢山教えて貰い、一緒に行けたのは良かった。バンドはどういう経緯で知り合ったか全く覚えていないが、豊中の竹谷亮君と夙川の深尾彰君の3人で、活動し始めた。竹谷君のバイト先である十三のピコピコノルドという店で、店の空いている時間に練習をさせてもらっていた。ドラムの深尾君の家にはしょっちゅうお邪魔して、よく食事もごちそうになった。

神戸外大の文化祭に出演することになり、急遽決めたバンド名が「バベル」、リーダーの竹谷君がバベルの塔から取って、漢字で芭辺留と表示すると決めてきた。ただ方向性の違いから、直ぐに脱退することになった。

このバンドでの録音テープも数曲残っているので、機会があればYoutobeで公開したい。

このころ、電電公社やペプシコーラでバイトしてためたお金でフェンダーのストラトを買った。大阪の楽器屋まで竹谷君についてきてもらったと思う。

こいつは今でも現役、よき相棒となっている。というか、これ以降ギターは購入していない。

変拍子やポリリズムについて              (2026/7/16)

​ピンクフロイドのマネーの7拍子から興味を持ち始めたのだと思う。そういえば、高校時代、友人たちとYESのラウンドアバウトをコピーしようとしたことがあった。その時はベースを担当した、後半の8ビートの中で三連符を弾き続ける心地よさに魅了されたからだと思う。ただ、高校生の僕たちは、あまりにも技術不足のため、完成はしなかった。(アンダーソンは植村、ハウは久保、ブラッドフォードは木下、そして、キーボードは顔までウェイクマンにそっくりな山上)

芭辺留時代に「流転」という長い曲を作った。そのギターリフは10拍(4拍+4拍+2拍)。また、「確実なる確信」という、7拍+9拍=16拍がメインのリフの曲も作った。

精密機械の初期の曲に「黒い波」というこれも長い曲がある。その曲の途中は3拍子(ベース)と4拍子(ドラムス)のポリリズム。12拍が1クール。と言っても、当時ポリリズムなんて言葉は知らなかった。​

もともとリズム感も悪いし、センスがあるわけでもないが、なぜか複雑なリズムに魅了される。数学的な面白さとともに、多分、バラバラで統一感が感じられなかったものが、一致する気持ちよさや収束していく感じが心地いいのだと思う。

ただ、ツエッペリンのブラックドックは、未だに弾けない。

加藤和彦                       (2026/7/25)

​中二(1971)で音楽に興味を持ったころには、フォーククルセイダースはとっくに解散していた。だから後追いでレコードを買った。そして、加藤和彦のソロアルバム「僕のそばにおいでよ」の抗議文、「児雷也顛末記」の内容に深く考えさせられた。

だから、ギンガムやドーナッツレコードの立ち上げに納得した。

ミカバンドのファーストは良い。今見るとすごいメンバーだが、当時は私は全く知らなかった。サイクリングブギのドラムつのだひろが辞めたことがショックだったぐらいだ。成毛茂の名前は知っていてもベースを担当していた高中正義は知らなかった。学生街の喫茶店のガロは知っていても、バックバンドの高橋幸宏も小原礼は全く知らなかった。だけど、快傑シルバーチャイルドのドラムは凄かったし、影絵小屋のギターにもぶっ飛んだ。(高中のギターはミカバンド時代が最高だ)

二枚目のプロデュースがクリストーマスと知りこれにも驚いた。あのフロイドの狂気のプロデューサーだ。期待は大きく膨らんだが、「黒船」はその期待をはるかに超えるお気に入りになった。

モップス                       (2026/7/25)

​加藤和彦が関係したアルバムをいろいろ買った。ヤングジャパンのバンクーバーツアーのライブや加藤和彦がプロヂュースしたというだけのフォークシンガーのレコードも。そんな中の1枚にモップスの「16人の仲間たち」がある。そこでの新しい出会いが、星勝だ。彼のギターと歌にやられた。だから何枚かアルバムを入手した。月光仮面はコミックソングとしてしか聞いていなかったが、改めてじっくり聞くと星勝の歌とギターが良かった。永久運動、歌いたい魂、何処へ・・・日本語ロックの始まりはモップスだと思った。

ロリーギャラガー                   (2026/7/25)

​ロリーギャラガーにどんな経緯で興味を持ったのかは覚えていない。多分とにかく色々なギタリストの音を聞いてみたいと思って、たまたま聞いたうちの一人だったのだと思う。当時は、ジミヘンはもとより、当時三大ギタリストと呼ばれた御三家やリッチー、アルビンリーやトニーアイオミ、ポールコゾフヤピートタウンゼント等々。

その中で、ロリーのテイスト時代のワイト島フェスのシュガーママが最高だ。こんな風にギターを弾きたいと思った。もちろん今も、だけど未だにあんな風には到底弾けない。

フリー                        (2026/7/27)

​フリーも好きなバンドだ。重たさとタメがいい。精密機械を始める前、フリーのコピーバンドに誘われたことを思い出した。それに加わっていれば、それはそれで楽しかったと思うが、オリジナルをやりたかったので断った。

ジミヘンドリックス                  (2026/7/27)

​ギターの神様ジミヘンと聞き、アルバムを集めた。お金が無いので、ほとんどが輸入盤、当時LPは輸入盤が正規版の半額ぐらいだった。トリオ編成でやりたいと思ったのは、エクスペリエンスから。(クリームの影響もあったかも)ライブでの3人だけの緊張感が良い。

ジミのギターはもちろん好きだが、細かく手数の多いミッチミッチェルのドラムも好きだ。

カルメンマキとOZ                  (2026/7/27)

​1976年にテレビで「私は風」を見た。NHKのヤングミュージックショーだったと思う。この時はキーボードが無く、春日のギターが泣きまくり、シゲの歪んだ重低音ベースが唸り、内藤正美のドラムが凄まじかった。もちろんマキのハイトーンもシャウトも突き抜けていた。後に「私は風」をLPで聞いて違いに驚いた。スタジオ録音ではあのライブの緊張感や迫力は表現できないと思った。自分としては、OZのベストテイクはこれ。この年のヤングミュージックショーは金子マリとバックスバーニーの「最後の本音」も良かった。

ブラックサバス                    (2026/7/27)

​1975年のサボタージュのFMのエアーチェックが最初の出会いだったと思う。中学時代に日本でヒットしたパラノイドは聞いたことがあったが、全く興味はなかった。だから、この時は全く期待せずエアーチェックしたのだと思う。そして、このアルバムの数曲がなんとなく気になり、その後、輸入盤屋でジャケットが気に入ったこともあってファーストを購入した。それで、1曲目のタイトル曲でグッと興味を持った。陰鬱で暗いギターリフが好きだ。不安定な半音が好きだ。マイナーの曲で一瞬メジャーな音を入れると暗さが引き立つ。

ROCK IN ROKKO の METAL FROG      (2026/7/28)

​1960年代より、神戸大学六甲台講堂で毎年ROCK IN ROKKOが開催されていた。私が高校生だった73年~は、毎年のように聴きに行った。そこは京大の西部講堂に似た学生自治の雰囲気があったと思う。毎年関西で活躍している多数のバンドが出演していた。

ウエストコースト風のストロベリージャムから、プログレ・ハードのシェヘラザードとジャンルにこだわりなく、天地創造、EB&S、DADA、バンドオブ妻三郎、等々。アマチュアのコピーバンドからプロ顔負けのバリバリのバンドまで、分け隔てなくおもちゃ箱のような自由なコンサートだった。主催はFreeAllという団体、当時は、黒T、黒ジーンズ、サングラス、長髪のカワサキさんが毎年司会をされていた。そんな中のこのバンドMETAL FROGを直接見たのか、後に川崎さんに借りたテープで聞いたのかは不明だが、とにかく気に入って、テープを何度も繰り返し聞いた。重く重厚なリフ、とぼけたようで、悟ったようなボーカル、とにかく最高だった。​

NEU!、La Düsseldorf                   (2026/8/8)

​このバンドはすっかり忘れていたが、数年前にある番組を見て突然記憶に戻ってきた。それは最近セカンドシーズンが始まった、日曜劇場「VIVANT」だ。

デュッセルドルフのセカンドアルバムは、手描きのスプレー缶で大きくタイトルが描かれていた。 そのタイトルが「VIVA」。ドラマを見た時、そのアルバムが一瞬で脳裏に蘇った。

クラフトワークかブライアンイーノか、またはロックマガジンの影響か、どこからかこのバンドに辿り着き、一時ハマった。単調なリズム、実験的な音、機械的で工学的で無機質な音質に惹かれて、後に自分たちも1曲作った。

「悲観的でも楽観的でもない現実」という曲だ。

ダラダラした長い曲で、喋るようなボーカルにした。曲の最後は新しい国の国歌にしたかったので、ジミヘンの星条旗やラッシュのアンセムにヒントを得て創った。

デュッセルドルフといえば、その前身のノイ!のセカンドアルバムも手に入れて聞いていたと思う。これらのLPは当然輸入盤だが、当時は三宮にも神戸にも輸入盤屋が複数ありよく梯子した。

 No New York                     (2026/8/8)

​このLPもどうやって辿り着いたのか全く覚えていない。しかし、これにはかなりハマった。精密機械のバンドとしての曲や音の組み立てに大きな影響を与えたと感じる。歌詞は英語で全く分からなかったが、それは関係なかった。どうせ自分たちは、言いたいこと、考えていること、思っていることをそのまま歌詞にするだけだから。

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